「ゲーム強い=偉い」論争の個人的見解
こんにちは天野です。
実家から帰る新幹線が暇すぎるので記事を書いています。
今回のテーマはこちら
「ゲーム強い=偉い論争」
格ゲーマーのみなさんは聞き馴染みがありますよね?
一応知らない方に説明すると、ゲーム強い奴が偉いのか、もしくはそうでないのかという論争です。
格ゲーTwitter界において半年に一度ほどのペースで話題になるこのテーマですが、あまりに何度も話題になるので、これに関する個人的な見解をブログで述べておきたいと思います。
結論から言うと、
ゲーム強え奴は偉いんだよ!
てか、前提としてそうしとかないとゲームやる価値がなくなる!
ってのが自分の考えです。
これだけだと炎上しそうなので、なぜそう思うかその理由を書いていきます。
①言葉の定義
まず、自分はこの"ゲーム強い奴"のことを"ゲームの勝者"と定義しています。そして、"ゲームの勝者"の価値というのは"ゲームの勝利"の価値と等価であると考えます。
また、自分は"偉い"を"絶対的で最も尊い"と定義しています。
つまり私は、
ゲーム強い=偉い
というのを
ゲームの勝利=絶対的で最も尊い
と解釈しているわけです。
②「ゲームの勝利=絶対的で最も尊い」が正しいと考える理由
ではなぜ自分が「ゲームの勝利=絶対的で最も尊い」と考えるかについて理由を記述していきます。
なぜなら、「ゲームの勝利=絶対的で最も尊い」ということを前提にしないと、対戦ゲームをする意味がなくなってしまうからです。
対戦ゲームは、お互いが全力を尽くして勝利を目指すというルールに基づいて成立しています。
全力を尽くして勝利に向かう上で、結果として得られるその勝利というものの価値が絶対ではなく、外的要因によって容易に覆されてしまうものだとしたら…?
全力で勝利を目指す気はなくなりますよね?
プレイヤーのどちらかが全力で勝利を目指さなくなってしまった時点で、対戦ゲームは成立しなくなってしまうのです。
少し分かりにくいと思うので具体例を出します。
例えば、ゲームはとことん強いけど素行が悪いプレイヤーがいたとします。では普段の素行が悪いからといって、そのプレイヤーの勝利の価値まで下がるものなのでしょうか?
私は下がらないと考えています。というか下がらないべきです。
もし外的要因によって、勝利の価値が下がってしまうなんてことがまかり通ってしまったら、真剣に対戦ゲームなんてやってられません。
こういうことを言うと、
「じゃあ、ゲーム強いやつは何やってもええんか?」
という意見があるかもしれませんが、それは全くもって的外れです。
ゲームでの勝利とその人の人格などの問題は別に分けて考えるべきで、ゲームの画面外の出来事をゲームの中に持ち込もうとするようなメンタリティの人は、わざわざ対戦ゲームなんかやらずに、成果や人格などが総合的に評価される一般社会で生きていった方が幸せだと思います。
わざわざ対戦ゲームをやるんだっていう人は、まず、「ゲームの勝利=絶対的で最も尊い」ということを前提として、ゲームをやるべきであると私は考えます。
それをすることで初めて、対戦ゲームをする価値(=勝利を目指す価値)が生まれるのではないかと思うわけです。
汚い文章でしたが最後まで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m
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